2014/12/15

ヴィベケ・タンベルグと北欧

1967年にノルウェーのオスロ生まれたヴィベケ・タンベルグ(Vibeke Tandberg)は、ポートレイトを題材にジェンダーやアイデンティティーの問題にかかわる作品を発表している女性写真家だ。
1996年に発表された「Valentina では1969年のNASAの写真を題材に彼女が宇宙飛行士を演じ、同じ年の「Living Together」ではひとりで双子の姉妹を演じながら日常を再構成した。その後、友人の顏を統合した「Faces」を制作、99年の「Beautiful」では理想的と思われる女性のからだに自分の顏を合成させている。こうしたアイデンティティーの“二重映し”は彼女の大きな特徴だ。

2014/11/15

濱谷浩と関係性

濱谷浩 (Hamaya Hiroshi,1915) は風土とのかかわりにこだわって、写真をとり続けてきた作家だ。1956年の写真集『雪国』は、文字通り雪国がもつ場所性(placeness)が人々の営みを通して浮き彫りになっている。なかでもよく知られている写真は『歌ってゆく鳥追い』(上図)だろう。

ウォーカー・エヴァンスと社会

米国ミズーリ州セントルイス生まれの写真家ウォーカー・エヴァンス(Walker Evans, 1903-75) は、1926年にカレッジをドロップアウト。フランスに渡り、ソルボンヌ大学で文学の講義を受けながら、作家をめざすという文学青年だった。当時流行りの「ロスト・ジェネレーション」だ。

2014/10/15

グルスキーの風景


ニュー・トポグラフィクスの写真家として給水塔や溶鉱炉などドイツ近代の産業遺産を取り続けたベルント=ヒラ・ベッヒャー(Bernd and Hilla Becher, 1931-) 夫妻に師事したアンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky,1952-)。精緻な空間描写はベッヒャー派の伝統だが、画面をデジタル処理して現実世界と画像との鏡像関係を打ち崩すやり方には師匠のベッヒャー夫妻も抵抗を感じているようだ。

2014/09/15

ムンカッチ:アメリカへ  3/3

ところが、転機が訪れる。ナチスの台頭だ。1933年2月21日、老ヒンデンブルク皇帝からヒトラーに全権が委譲された「ポツダムの日」の歴史的出来事を撮影してから2カ月後、ムンカッチが契約していた新聞「ベルリーナ・イラストレールテ・ツァイトゥング」からはユダヤ人が一掃されることになった。ユダヤ人であったムンカッチもまた次第に居場所を失い、アメリカに逃れる。34年、ムンカッチが38歳になる少し前のことだった。

2014/08/15

ムンカッチ:ベルリンにて  2/3

(承前)
1933年、ニューヨーク州ロングアイランドの砂浜で、モデルの女性が高々と飛びあがり、その服が傘のように広がっている瞬間を捉えた写真がある。一瞬へのこだわりは、報道にせよモードにせよ、写真に課せられた宿命ともいえる。

2014/07/15

ムンカッチ:報道的モード写真  1/3


1928年に18歳でドイツに渡り、現地のグラフ雑誌などで報道写真家を勤めた名取洋之助(1910-62)は、帰国後、木村伊兵衛らと日本工房を設立した。そこで英文グラフ誌『NIPPON』を創刊するなどして、日本の報道写真やデザインに大きな影響を与えた。

2014/06/20

トーマス・デマンドの空間探求 (下)


(承前)
ドイツ人以外の人にとっては、トーマス・デマンドの撮影した“現場”を見てなんらかの事件を想起するのは困難だ。しかし、そこに漂う異様な感じ、不可解な気配はある程度理解できる。

オフィス、ラボ、工場、キッチン、浴室――撮影された“現場”はほとんどが閉鎖空間で、そこから感じとれるものはまず違和感だ。それは奇妙な息苦しさといってもいいだろう。と同時に、作り物の“現場”は紙という素材からできているため、撮影画面にはどこか薄っぺらさが漂い、全体として嘘っぽさ、空虚感のようなものも拭えない。作品のなかに人間がいっさい登場しないこと、あるいは彩度の際立ったペキペキと折れてしまいそうな画像もそうした印象を与える要因となっている。

2014/06/08

トーマス・デマンドの虚と実 (上)


ドイツの写真が戦後の歴史と少なからず向きあってきたのはたしかだろう。それは批判とか自省というのとはどこか違って、確認という言葉に近いような気がする。壊れたパズルをもう一度きちんと枠のなかに嵌め込んでみる、というような。そうすることではじめて、過去が照射され、過去の側からも現代が逆照射される。確認という作業は、自分たちの生きる戦後社会について、そのリアリティを検証し続けることといってもいかもしれない。

2014/05/15

ジョン・ディヴォラ、実存的証明

1978年から79年にかけて海辺の室内風景を撮ったシリーズ『Zuma』で、ジョン・ディヴォラ (John Divola, 1949-) はその名を知られるようになった。これは興味深い写真群で、海を臨む窓は大きく開かれ、その開放感とは対照的に、室内は破壊のあとが生々しく、ある種のヴァンダリズムを思わせる。

2014/04/15

ラフリンの廃墟

Laughlin, "Elegy for Moss Land" (1940)  

「カメラを持ったエドガー・アラン・ポー」。アメリカ南部ルイジアナ州に生まれたクラレンス・ジョン・ラフリン(Clarence John Laughlin, 1905-85) はそう呼ばれた。
独学で写真を学び、ニュー・オリンズを舞台に廃墟のイメージをもった写真を撮り続けた写真家だ。

2014/03/15

カール・ブロスフェルトの詳細植物写真

19世紀末から20世紀という時代の変革期に、ドイツで活動した一風変わった写真家がいる。カール・ブロスフェルト(Karl Blossfeldt, 1865-1932) はベルリンの彫刻教師だったが、学生たちの教育のためにディテールにこだわった植物写真を数多く撮影した。写真は独学で、しかも残っているのはすべて植物を大写ししたものばかりだ。つまりある種の植物研究写真と呼ぶのがもっとも適切かもしれない。

ブロスフェルトのなかには、すべて必要な造形は自然のなかにあらかじめ予見されているという考えがあったらしい。そのため、自然研究に没頭し、35年ものあいだ、徹底して植物の花や蕾、芽、茎、種子などを撮り続けた。そこにはしかし、機能を越えた奇妙さという美が感じられる。

こうした彼の仕事は、植物の構造を解き明かすとともに、写真の世界にも革新的なものをもたらしている。その造形はときにガウディの建築のようであり、オキーフの絵、パリの街灯、あるいはアフリカのプリミティヴな仮面のようでもある。今日ではブロスフェルトの写真集『芸術の原型』(Urformen der Kunst,1928年)は、新即物主義(Neue Sachlichkeit)が写真に及ぼした影響として語られたりもする。


■関連書籍

2014/02/18

シュタイナート 2: 陥穽

(承前)
オットー・シュタイナート(Otto Steinert, 1915 -78) は、フランス国境に近いドイツのザールブリュッケンに生まれた。第二次大戦中は軍医として従軍。戦後は大学の医療機関に医者として勤めていたが、1947年に趣味の写真を職業とすることを決意。郷里に戻って静かに再スタートを切ろうと決意する。

2014/02/13

シュタイナート 1: 主観主義写真

戦後のドイツを考えると、歴史を見つめる眼差しの冷徹さに日本との歩みの違いを感じる。その冷徹さとは、記録性を重視した客観というよりも、むしろ感じていることを臆することなく表現するという強さ、厳しさといったほうがいいだろう。

2014/01/21

エリオット・ポーターの色彩



どこかの庭先だろうか。低い塀に腰かけ、大判カメラを抱えている青年の写真が残っている。その眼差しはどこか科学者を思わせるのものだが、それはこの写真家のハーバード大学医学部卒業という経歴を知っているからだけではない。あらためて眺めてみても、理知的な輝きをそこに感じることができる。

2014/01/08

古屋誠一の「記憶」 (下)

(承前)
古屋誠一は1950年、静岡県で土建業を営む家に生まれた。72年に東京写真短期大学を卒業し、その翌年、シベリア経由でヨーロッパに向かっている。東欧から、オランダ、ドイツ、さらに旧東ドイツを経て、87年にオーストリア第2の都市グラーツに移り住んだ。
その間、78年にクリスティーネと結婚。85年に彼女の自殺によって結構生活に幕が引かれるまで、8年間をともに暮らしている。

2014/01/01

古屋誠一の「記憶」 (上)

過ぎ去ってゆくものを、繋ぎとめようというのではなく、過ぎ去るままに写しとろうという視線。それはなかなかに困難な所業だ。愛惜の思いはだれしもが強く感じることで、しかし、それを懐深く抱えこみながら、シャッターを切る。写真とは残酷なものだ、と。