2011/11/30

藤岡亜弥の彷徨

藤岡亜弥の作品『さよならを教えて』には、過程であるがゆえの完成があるように感じる。もってまわった言い方なので、少し説明を。
写真を見て感じるのは、なにかをつかもうとして、つかめずいる気配だ。とどまることがなく彷徨する青春の姿が、ある種の甘い旋律として流れでている。それは作者のコメントにもじつによく滲んでいる。

2011/11/23

ヴォイナロヴィッチ:死 4

別れが訪れるのは、ヴォナロビッチがヒュージャーにであってから6年後。ヒュージャーはエイズで死んでしまう。その絶望の深さは、鬼気迫るような彼の作品から伝わってくる。

2011/11/21

ヴォイナロヴィッチ:暴力 3

ヴォイナロヴィッチはきわめて過酷な幼少期を送った。1954年米ニュージャージー州レッドバンク生まれ。マンハッタンからハイウェイで飛ばすと1時間くらい距離で、のどか雰囲気をもった典型的な郊外タウンだ。

2011/11/19

ヴォイナロヴィッチ:肖像 2

ヴォイナロヴィッチのさまざまな表現のなかで、最も気になるのは写真だ。U2のアルバム『One』に使われた断崖から転落する黒いバッファローたちの写真は、そのナイーヴさと無気味さにおいて彼の資質をよく現している。
追い立てられ自壊していくもの哀しさと怒り。しかし、その黒々としたからだが宙を舞う姿は、不思議なユーモアを湛えている。その滑稽さこそが、胸を打つ。

2011/11/17

ヴォイナロヴィッチ:性 1

戦争の惨劇が表現のリソースとなるように、1980年代以降、エイズもまた数多くの表現を生みだしてきた。戦争とエイズに通底するものがあるとすれば、それらが内包する破壊衝動とでもいうべきものだろう。一方で、エイズに関わる写真表現によって、写真自体がはじめて日常生活の深部に到達したという見方も可能だ。なぜなら、エイズは日常生活のなかの過酷な死を、報道ではなく表現者がその当事者として体験・記録しはじめた大きな出来事であるからだ。

2011/11/14

ヒュージャーの確信 (下)

ピーター・ヒュージャーの撮影した男性ヌードは、なにかしら並外れたものを感じる。それは他の写真家が目を向けない存在に関心を抱き、そこになるなにかを捉えているからだろう。彼がゲイだったからというわけではない。
ゲイという特性は、制作を行ううえで大きな要素ではあっただろうが、基本的には性ではなく生に対するヒュージャーの眼差しの凄みがゲイであることを凌駕している。それは熱くて、冷めたものだ。

2011/11/11

ヒュージャーの肖像 (上)

死体はモノか、身体か。あるいは、それははたしてだれのものなのか。これはなかなか難しい問題だ。モノと割り切れる人もいるだろうが、感覚的にはモノとはいいがたい。やはり身体と考えたほうがしっくりとくる。

2011/11/08

マイケル・ウォルフ 2/2:人を撮る

ハリー・キャラハンの写真にもビルの壁面を撮った写真が数多くある。キャラハンの壁面が見る者の感覚を包むような感じがあるとすれば、マイケル・ウォルフの壁面は重圧感となって神経を圧する。詩情を欠くことで、微温的な空気を排除し、空間をわしづかみにしているかのようだ。

2011/11/06

マイケル・ウォルフ 1/2:香港的空間

ずっと以前に、香港の狭苦しい安宿の十数階の窓から、通りを隔てた向かいのビルの壁面ばかり眺めていたことがある。夏の終わりの香港は蒸し暑く、部屋の天井に取りつけられたいまにも壊れそうな扇風機が、ゆるゆると回っていた。

2011/11/03

ヴォルフガング・ティルマンスと写真の変容

2004年秋、『美術手帳 11月号』がヴォルフガング・ティルマンスを特集した。
日常のなかにある繊細な美を作品化し、とくに近年ははかない一瞬の日常に目を向ける作家は多いのだが、ティルマンスは視点・構図・色彩といった面で他を圧倒している。