2011/09/30

神谷俊美と都市の幽霊


20世紀前半のチェコは、陰影をもった独自の前衛写真を残している。そのなかにあって、ヨゼフ・スデック(Josef Sudek,1896-1976)という写真家の作品は、静かなノスタルジーに満ちている。神谷俊美 (Kamiya Toshimi,1946-) はこのスデックに大きな影響を受けたという。

2011/09/27

柳沢信の「場」 2


柳沢信は1936年東京・向島生まれ。江戸っ子である。東京写真短大を卒業後、58年にミノルタのPR誌「ロッコール」に『題名のない青春』を発表しデビュー。戦後派である。7ページに渡って掲載されたこの作品は、横浜の波止場で友人を撮影したものだ。

2011/09/26

柳沢信の「場」 1

写真家・柳沢信 (Yanagisaw Shin,1936-2008) の、奇を衒わない自然な眼差しに惹かれる。
この寡作な作家の、それでもかれこれ40年にわたる作品のなかで、とりわけ旅の途上で撮影された風景写真に眼が留まる。そういう写真を撮って人の気を惹きつけることができるのは、ともすれば装飾的になりがちな表現者の過剰な創作欲が、ここではさっぱりと排除されているからだろう。

2011/09/23

チェコ前衛写真3:フンケ



階段状に重ね合わせたいく枚かの薄いガラスのうえに、2個の蜜柑をおいて撮影された作品がある。ヤロミール・フンケ (Jaromir Funke, 1896-1945)1935年に制作したもので、タイトルは『無題』。
これを見たとき、ふいにバウハウスの芸術家オスカー・シュレンマー (Oscar Schlemmer, 1888  -1943) のトリアディッシュ・バレエが頭に浮かんだ。床に描かれた幾何学的な直線模様にそって、ダンサーがロボットのような動きを繰り返すダンスは、モダニズムの合理的思考と身体の有機性との干渉によって、冷たさのなかにある笑いのようなものを感じさせてくれる。
フンケの『無題』にもその笑いがある。彼の場合、その笑いがリリシズムとなって画面に姿をみせることが多いだろう。チェコ・モダニズムと併走しつつ、身体やモノに対するある種の情感を一方の支えにしたその作品群。それらからは、チェコ前衛写真におけるフンケの独特なスタンスを読みとれる。

2011/09/21

チェコ前衛写真2:レスレル


ヤロスラフ・レスレル(Jaroslav Rossler, 1902 - 1990) は最初、ピクトリアリスムの写真家の指導をうけ、初期の作品には明らかにその影響が強くでている。ところが、新しい潮流に対する彼の敏感さは、1920年にカレル・タイゲ(Karel Teige,1900-1951) が立ちあげたチェコの前衛芸術家集団「デヴィエトスィル」(Devetsilu,1920-31)に、写真家としてただひとり参加(1923)したことでもうかがえる。その後、1925年にレスレルはパリに向かう。ちょうどトワイヤンと同じ頃だった。やはりパリへの憧れが強かったのだ。

2011/09/19

チェコ前衛写真1

20世紀前半のチェコ(ボヘミア) はバウハウス(Bauhaus) の影響を強く受けている。たんに影響をうけたという以上に、陰翳深いかたちでそれを消化し、独特の前衛芸術を発展させていった。
背景には、1918年のチェコスロバキア独立に絡んで、少数派とはいえかなりの数にのぼるドイツ人に対して不平等な処遇をしてきたことがある。さらに、当時のチェコ前衛の芸術家たちがフランス志向であったこともひとつの要因だろう。多民族国家として成立したチェコスロバキアにとって、文化は新生国家の統一性を保つための要素であり、それを求めて自由と躍動の時期にあったといえるかもしれない。 (※ 写真/デザイン:Karel Teige

2011/09/16

フランク・ゴールケの風景 3: 自明性への問い


ふりかえれば、19世紀に登場した感覚に重きを置いた写実絵画は、20世紀の芸術に貴重な遺産を残したが、短期間のうちに衰退する運命にあった。
「モネはひとつの眼にすぎない。だが、それはなんと素晴らしい眼だろう」
そのセザンヌの声は、感覚への賞賛である以上に、その限界を嘆くレクイエムとして響いてくる。

2011/09/14

フランク・ゴールケの風景 2: カポニグロ


1942年にテキサスで生まれたフランク・ゴールケは、テキサス大学で英文学を学び、東部の名門大学エールで学術修士を取得した知識人でもある。その一方で、在学中より写真を始め、やがて風景写真家のポール・カポニグロ(Paul Caponigro,1932-)に師事し、プロの作家への道を歩んでいく。少しカポニグロにふれておこう。

2011/09/12

フランク・ゴールケの風景 1: ニュー・トポグラフィクス


写真家フランク・ゴールケ ( Frank Gohlke,1942-) といったところで、日本での知名度が高いわけではない。わかりやすい紹介としては、1975年にジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館で開催された「ニュー・トポグラフィクス」展に出品した一人といえばいいだろうか。
同展は副題を「人間が変えた風景の写真」という。10人の写真家たちが出品し、このなかにはルイス・ボルツやベッヒャーらがいた。彼らの写真の共通項は、既存の風景概念をいったん放棄したことだった。測量学的なニュアンスの強いトポス(地勢)と、作図を意味するグラフィクス(製図法)を組み合わせた名で呼ばれることになるこれらの写真家たちが、写真と風景の関係に及ぼした影響は計り知れない。 

2011/09/09

ロベール・ドアノーのパリ郊外


『市役所前のキッス』というあざとさが目につく写真のために、ロベール・ドアノー(Robert Doisneau,1912-94) は誤解を受けている。ドアノーの大衆性を表面的にとらえてしまうと、その写真を見誤ることになる。比較文化論の今橋映子は著書『<パリ写真>の世紀』のなかで、ドアノーの好んだ言葉が「不服従」(desobeissance)であると書いていた。「この信念こそが、ドアノーの精神を支えていた」と。

小石清の神経 3

『初夏神経』というタイトルは、その文字面を見ているだけで、濃密な陰りを感じさせる。実際、小石清がはじめて形にした、この写真集には、その過敏な神経を結集したかのような作品が並んでいる剥きだしになった神経が時代を模索し、ある種の皮膚感覚となって伝わってくる。同時に、どこかとぼけた味があって、それがピクチャレスクに決別し、写真の独自性を追求した新興写真にあって、安井仲治(Yasui Nakaji, 1903-42)や小石はさまざまな技法を駆使しながら、より先鋭的な写真像を追い求めていった。

2011/09/05

小石清の神経 2

その成果は、1931年に第二回国際写真展で一等商工大臣賞の受賞としてかたちになる。第一回は中山岩太が受賞した賞である。小石の受賞作は「クラブ石鹸」。黒をバックに白い波線のなかに石鹸を浮かび上がらせた前衛的な作風だ。その後、小石は数々の写真賞で一等入賞を重ねていく。

2011/09/03

小石清の神経 1

写真の記録性が、ときとして写真家に屈辱をもたらすことがある。それは権力が時代の記録のために、しかも自身に都合のよい記録のために彼らの技術のみを利用しようとするときで、1930年代に出現した日本のフォトジャーナリズムはその受難と向き合うことになった。