2011/08/31

安井仲治の「壁」 3


安井はこの作品に寄せて、本来は縁のないはずの人と猿が、また見る人と見られる人が、ひとつにつながっている。そうやって生活している、という意味のことを書き記している。「目に見えぬ何か大きな糸ででも結ばれてゐる」と。そのすがたが、どこか悲しげで、それでいて温かい。おそらくそれが安井の人間観であり、世界観であったのだろう。

2011/08/30

安井仲治の「窓」 2


1928年に安井は倶楽部の中堅4人で「銀鈴社」を結成、30年には浪華写真倶楽部のメンバーが新たに設立した「丹平写真倶楽部」参加した。心斎橋筋2丁目にあった丹平ハウスに部屋を持ち、1階にあったアメリカ式カフェのソーダファウンテンに仲間たちが集まって、写真談義をした。丹平写真倶楽部は兄貴分の浪華写真倶楽部に比べ、ストレートフォトの傾向が強く打ちだしていた。新しい作風を求めて、活動の幅を広げていく安井の姿がうかがえる。

2011/08/29

安井仲治の「窓」 1



38歳という若さで亡くなった写真家・安井仲治(Yasui Nakaji, 190342)は、ドキュメンタリーからシュルレアリスムまで幅広い分野を手がけているが、そこに立ち現れる象徴性は一貫している。
たとえば安井の作品にナチスの迫害を逃れ日本にやってきた亡命ユダヤ人を撮ったシリーズがあって、なかでも『窓』とタイトルされたタテ位置の写真は独特のムードを漂わせている。おそらく神戸だろう。当時は欧州航路の客船は神戸港に入り、ここから航海にでた。想像をはるかに超えて、コスモポリタンの街であったはずだ。

2011/08/24

中山岩太のモダニズム 3


そのころ、カメラといえばいまとは比較にならないほど高価なもので、それを所有するのは特権階級的な人々で、特殊な趣味であった。芦屋カメラクラブが地域にとどまらず、全国的に名を馳せたのは、その背景に芦屋もしくは阪神間のモダンな文化があってのことだろう。

2011/08/23

中山岩太のモダニズム 2


当時、プロのカメラマンとは営業写真師を意味し、創造的な作品はもっぱらアマチュア写真家によって支えられていた。芦屋カメラクラブもそのひとつだが、創設時に中山以外で作品発表暦を持つ者はいなかった。しかし、中山のカリスマが会員たちを牽引し、その成果は昭和6年(1931)に東京朝日新聞展覧会場で行なった展覧会に結実する。「独逸国際移動写真展覧会」が開かれた直後、同じ会場で開催されたものだ。

2011/08/22

中山岩太のモダニズム 1





写真を芸術に高めようと、大正期には特殊な技術で画像をぼやかせた「芸術写真」(ピクトリアリスム)が流行した。ところが、昭和になると、写真が本来もっているシャープで明晰な画像によって、新たな作風を追求する動きが高まってくる。「新興写真」といわれたドイツ風の前衛的な表現様式で、これを日本にもちこんだのが中山岩太 (1895-1945)だった。