2011/12/22

田原桂一のパリ


京都に生まれパリに魅せられた田原桂一は、高校卒業後に劇団レッド・ブッダ・シアターに参加した。そこで照明や映像を担当。1972年には劇団スタッフとしてヨーロッパ公演に同行した。公演がおわったあと、田原はひとりフランスに残ることを決心する。その後パリで写真家を目指し、自室の窓から見えるものを写真に撮ることから作家活動をはじめた。

2011/12/15

空を撮るということ


「菅原一剛の今日の空」というサイトがあって、2002 1月1日から今日までの空が撮影・公開されている。ほとんどが都市のスカイラインを画面の下4分の1程度に配置し、その上に空が写されている。それらの空の多くは、明るくて、どこかとらえどころのない印象だ。まるで彼岸の光景であるかのような感じもある。

2011/12/07

尾仲浩二、旅のノスタルジー


尾仲浩二(Onaka Koji,1960-) が写しだすノスタルジーは、ちょっと胸をかきむしられるようなところがある。印画紙に浮かびあがった画像が、どれもこれも映画のシーンのごとくドラマを感じさせるからだろう。ときにベンダース、ときにアンゲロプロス、ときに小津のように。

2011/12/03

北代省三の風

 リアリズム写真を中心に語られることの多い1950年代の日本写真界にあって、一方では前衛芸術運動の高まりとともに、さまざまなタイプの写真家が活動を展開していた。瀧口修造が名づけ親となり、岡本太郎の鬼子などともいわれた総合芸術集団「実験工房」(1951-57)の中心的存在だった北代省三(1921-2001)は、まさにそのひとりといる。

2011/11/30

藤岡亜弥の彷徨

藤岡亜弥の作品『さよならを教えて』には、過程であるがゆえの完成があるように感じる。もってまわった言い方なので、少し説明を。
写真を見て感じるのは、なにかをつかもうとして、つかめずいる気配だ。とどまることがなく彷徨する青春の姿が、ある種の甘い旋律として流れでている。それは作者のコメントにもじつによく滲んでいる。

2011/11/23

ヴォイナロヴィッチ:死 4

別れが訪れるのは、ヴォナロビッチがヒュージャーにであってから6年後。ヒュージャーはエイズで死んでしまう。その絶望の深さは、鬼気迫るような彼の作品から伝わってくる。

2011/11/21

ヴォイナロヴィッチ:暴力 3

ヴォイナロヴィッチはきわめて過酷な幼少期を送った。1954年米ニュージャージー州レッドバンク生まれ。マンハッタンからハイウェイで飛ばすと1時間くらい距離で、のどか雰囲気をもった典型的な郊外タウンだ。

2011/11/19

ヴォイナロヴィッチ:肖像 2

ヴォイナロヴィッチのさまざまな表現のなかで、最も気になるのは写真だ。U2のアルバム『One』に使われた断崖から転落する黒いバッファローたちの写真は、そのナイーヴさと無気味さにおいて彼の資質をよく現している。
追い立てられ自壊していくもの哀しさと怒り。しかし、その黒々としたからだが宙を舞う姿は、不思議なユーモアを湛えている。その滑稽さこそが、胸を打つ。

2011/11/17

ヴォイナロヴィッチ:性 1

戦争の惨劇が表現のリソースとなるように、1980年代以降、エイズもまた数多くの表現を生みだしてきた。戦争とエイズに通底するものがあるとすれば、それらが内包する破壊衝動とでもいうべきものだろう。一方で、エイズに関わる写真表現によって、写真自体がはじめて日常生活の深部に到達したという見方も可能だ。なぜなら、エイズは日常生活のなかの過酷な死を、報道ではなく表現者がその当事者として体験・記録しはじめた大きな出来事であるからだ。

2011/11/14

ヒュージャーの確信 (下)

ピーター・ヒュージャーの撮影した男性ヌードは、なにかしら並外れたものを感じる。それは他の写真家が目を向けない存在に関心を抱き、そこになるなにかを捉えているからだろう。彼がゲイだったからというわけではない。
ゲイという特性は、制作を行ううえで大きな要素ではあっただろうが、基本的には性ではなく生に対するヒュージャーの眼差しの凄みがゲイであることを凌駕している。それは熱くて、冷めたものだ。

2011/11/11

ヒュージャーの肖像 (上)

死体はモノか、身体か。あるいは、それははたしてだれのものなのか。これはなかなか難しい問題だ。モノと割り切れる人もいるだろうが、感覚的にはモノとはいいがたい。やはり身体と考えたほうがしっくりとくる。

2011/11/08

マイケル・ウォルフ 2/2:人を撮る

ハリー・キャラハンの写真にもビルの壁面を撮った写真が数多くある。キャラハンの壁面が見る者の感覚を包むような感じがあるとすれば、マイケル・ウォルフの壁面は重圧感となって神経を圧する。詩情を欠くことで、微温的な空気を排除し、空間をわしづかみにしているかのようだ。

2011/11/06

マイケル・ウォルフ 1/2:香港的空間

ずっと以前に、香港の狭苦しい安宿の十数階の窓から、通りを隔てた向かいのビルの壁面ばかり眺めていたことがある。夏の終わりの香港は蒸し暑く、部屋の天井に取りつけられたいまにも壊れそうな扇風機が、ゆるゆると回っていた。

2011/11/03

ヴォルフガング・ティルマンスと写真の変容

2004年秋、『美術手帳 11月号』がヴォルフガング・ティルマンスを特集した。
日常のなかにある繊細な美を作品化し、とくに近年ははかない一瞬の日常に目を向ける作家は多いのだが、ティルマンスは視点・構図・色彩といった面で他を圧倒している。

2011/10/30

エリナ・ブロテルス 3:ゴドー

風景もまた、近年のブロテルスにとっては重要なモチーフだ。『ニュー・ペインティング』シリーズは、近世ヨーロッパ絵画の風景を自身の写真のなかに取り込みながらつくりあげたもので、そこにロイスダールやときにフェルメールを感じる。
ここ数年、ヨーロッパの写真家には近世に描かれた理想的風景に寄り添うような作品が見られるが、かといってそれは過去の模倣ではない。失われた時へのオマージュでもない。おそらくは現代の空気のなかに当時のような時代変革の匂いを感じとって、それをイメージ化しようとしているのだと思われる。

2011/10/27

エリナ・ブロテルス 2:生きられた経験

『愛について・・・』シリーズで気になるのは、自身との距離のとり方だろう。
ブロデルス自身の結婚を写した『結婚の肖像』 (1997)、同じく離婚した時の『離婚肖像』 (1998)、『私はセックスを嫌う』 (1998)などは20代の女性にとって抜き差しならない事態を、冷めるでもなく熱くなりすぎるでもなく捉えている。ここでは生きられた経験が写真によって形や色をあたえられ、それがまた経験に還元される。そんな構造があるのかもしれない。つまり、表層的に現代を生きる女性の生態を記録するというより、もっと生活に密着した思考が彼女のなかにあって、それが写真表現と密接に絡んでいるということだ。

2011/10/24

エリナ・ブロテルス 1:分析から創造へ

フィンランドの首都ヘルシンキに生まれたエリーナ・ブロゼラス(Elina Brotherus, 1972)  は、気になる写真家のひとりだ。現在はパリに暮らしているので、エリナ・ブロテルスとでも発音すればいいのだろうか。多作な写真家だが、その作品にはやはり北欧の空気を感じさせる透明感が通低音として流れている。かといって、なにかを美化しようというのではなく、身の周りの日常を素朴に見つめなおそうとする飾らない眼差しのなかに、現代的な新しさを感じる。

2011/10/21

高梨豊の都市と場所


最初に見たのは『東京人』シリーズのなかの、『船橋市 船橋ヘルスセンター』という写真だった。だだっ広い海岸を前に、防波堤に腰かけている男が写されている。おそらく21mmレンズなのでしょう、その背中が小さいのだけれど、このなにもない空間をひとつの場所にするだけの存在感がある。
人に寄り添って、人に寄り添われて、ある空間はひとつの場所になるのだろう。

2011/10/19

児玉姫子の肖像写真


児玉姫子の、写真家としてスタートはけっして早くはない。経歴をみれば1955年に秋田に生まれ、プロカメラマンとして仕事を始めたのは93年のこと。すでに38歳という年齢に達していた。
Passersby 静かな肖像』はその児玉が、2000年から2004年にかけて青山、表参道を中心に、東京の街で出会った人々を撮影したモノクロのポートレイト作品集だ。

2011/10/17

中條均紀と山古志村


中越地震で大きな被害を受け、その名を知られた新潟県山古志村は、同県屈指の豪雪地だ。その雪も溶け、5月の節句のころになると、この村が日本有数のこいのぼり産地であることを思い起こす。さらに、梅雨の季節には、山を切り開いてつくった棚田がなみなみと水をたたえ、この村にまるで箱庭のような美しさをもたらしてくれる。

2011/10/15

ジェルメーヌ・クルル:肖像 3/3


1930年代半ばから、ジュルメーヌ・クルルはモンテ・カルロやモナコ、さらにブラジル、フランス領赤道アフリカへと移り住む。ナチスの台頭を嫌ってのことだった。44年にフランスに戻ってくると、パリ開放を写真に収め、その後2年間は戦争特派員として東南アジアのバンコクに滞在する。そこでホテルを経営するなど、結局20年という年月を過ごすことになった。
その間、ダライ・ラマに傾倒し、インドに亡命したチベット仏教徒たちと暮らしをともにしたりもしている。

2011/10/13

ジェルメーヌ・クルル:機械 2/3


クルルの二度目の結婚相手は、オランダ人のドキュメンタリー映画製作者ヨリス・イヴェンス(Joris Ivens,18981989)だった。結婚後は、彼女も映画製作にのめりこむ。ロシアのフィルム・モンタージュやバウハウスの実験的写真を吸収し、アムステルダムでは都市の機能美に魅せられていった。こうして20年代半ばから10年あまりの間で、彼女が撮影した作品によって前衛写真家としての地位を確立していく。

2011/10/12

ジェルメーヌ・クルル:移動 1/3

移動の世紀。
ジェルメーヌ・クルル(Germaine Krull,1897-1985)は、このいささか手垢のついた言葉を、身をもって体験した女性写真家といえる。
クルルは1897年、ポーランド(当時プロイセン)の工業都市ポズナニ近郊に生まれた。両親はドイツ人で、エンジニアの父は彼女を学校に通わせることなく自分で教育を施した。15歳で両親が離婚するまでそれが続く。この間も、イタリアやスイス、フランスなどなどヨーロッパ各地を一家は移動している。

2011/10/10

フォコンの人形たち 2

(承前)
フォコンの写真のなかで、奇妙なオーラを発しているのはやはり初期の作品群だろう。そこには独特なシュルレアリスム的世界が展開している。ヴェロニック・ジリア(Veronique Giriat)の写真などにも、フォコンの影響がありありとみられる。ロラン・バルト(Roland Barthes,1915-80)による大量の批評も残されていて、哲学の素養といい少年愛的な感性といいバルトが彼の虜になったのはわかる気がする。

2011/10/09

フォコンの人形たち 1

フランスの写真家ベルナール・フォコン(Bernard Faucon,1950-)が少年のマネキンを使って撮影した世界には、奇妙な惨酷さがある。構築された世界はノスタルジックな少年時代の遊びの情景なのだが、無機的なマネキンゆえに世界は角質化し、死の気配すら漂っている。

2011/10/07

土田ヒロミの新・群集とは?

写真家土田ヒロミ (Tsuchida Hiromi,1939-) の新刊『新・砂を数える』を見ている。
かつて日本の風土にこだわって写真集『俗神』を撮り、つぎに群集に目を向けて日本人の姿を追ったのが『砂を数える』だった。『新・砂を数える』はそのタイトルが示すように、これらの延長線上にあるものと考えていいだろう。

2011/10/06

土田ヒロミの群集



土田ヒロミは写真集『俗神』で1970年前後の日本各地のハレの場を撮影した。
俗神。
すなわち風土に根を張って生きる人々の姿を写し撮ったのだ。

2011/10/04

坂田栄一郎とポートレイト


テレビがいやおうなく出演者たちの内面を暴き出してしまうとすれば、写真は一瞬のうちにその内面を抉りとる貪欲さが撮影者に要求されるのかもしれない。

24回土門拳賞を受賞した坂田栄一郎(Sakata Eiichiro,1941-)の写真は、各界の著名人のポートレイトとその横に自然を撮った風景写真を並べた2枚組みとなっている。前者がモノクロ、後者はカラー。その対比のなかで、被写体のぎらぎらとした輝きではなく、内側から染みだしてくるような、あるいはその人物の底で光っているようなものが掬いとられ、そっと提示されている感じがある。

2011/10/02

渡辺眸の不思議な交信

女流写真家の草分け的存在である渡辺眸 (WtanabeHitomi,1939-) を知ったのは、東大全共闘を写した写真からだ。それは霧のなかからぼんやりと現れた群像で、機動隊によって連行される闘士たちの姿だった。どこかしら死地に向かう兵士のようで、整然と、静かに行進しているように見えた。

2011/09/30

神谷俊美と都市の幽霊


20世紀前半のチェコは、陰影をもった独自の前衛写真を残している。そのなかにあって、ヨゼフ・スデック(Josef Sudek,1896-1976)という写真家の作品は、静かなノスタルジーに満ちている。神谷俊美 (Kamiya Toshimi,1946-) はこのスデックに大きな影響を受けたという。

2011/09/27

柳沢信の「場」 2


柳沢信は1936年東京・向島生まれ。江戸っ子である。東京写真短大を卒業後、58年にミノルタのPR誌「ロッコール」に『題名のない青春』を発表しデビュー。戦後派である。7ページに渡って掲載されたこの作品は、横浜の波止場で友人を撮影したものだ。

2011/09/26

柳沢信の「場」 1

写真家・柳沢信 (Yanagisaw Shin,1936-2008) の、奇を衒わない自然な眼差しに惹かれる。
この寡作な作家の、それでもかれこれ40年にわたる作品のなかで、とりわけ旅の途上で撮影された風景写真に眼が留まる。そういう写真を撮って人の気を惹きつけることができるのは、ともすれば装飾的になりがちな表現者の過剰な創作欲が、ここではさっぱりと排除されているからだろう。

2011/09/23

チェコ前衛写真3:フンケ



階段状に重ね合わせたいく枚かの薄いガラスのうえに、2個の蜜柑をおいて撮影された作品がある。ヤロミール・フンケ (Jaromir Funke, 1896-1945)1935年に制作したもので、タイトルは『無題』。
これを見たとき、ふいにバウハウスの芸術家オスカー・シュレンマー (Oscar Schlemmer, 1888  -1943) のトリアディッシュ・バレエが頭に浮かんだ。床に描かれた幾何学的な直線模様にそって、ダンサーがロボットのような動きを繰り返すダンスは、モダニズムの合理的思考と身体の有機性との干渉によって、冷たさのなかにある笑いのようなものを感じさせてくれる。
フンケの『無題』にもその笑いがある。彼の場合、その笑いがリリシズムとなって画面に姿をみせることが多いだろう。チェコ・モダニズムと併走しつつ、身体やモノに対するある種の情感を一方の支えにしたその作品群。それらからは、チェコ前衛写真におけるフンケの独特なスタンスを読みとれる。

2011/09/21

チェコ前衛写真2:レスレル


ヤロスラフ・レスレル(Jaroslav Rossler, 1902 - 1990) は最初、ピクトリアリスムの写真家の指導をうけ、初期の作品には明らかにその影響が強くでている。ところが、新しい潮流に対する彼の敏感さは、1920年にカレル・タイゲ(Karel Teige,1900-1951) が立ちあげたチェコの前衛芸術家集団「デヴィエトスィル」(Devetsilu,1920-31)に、写真家としてただひとり参加(1923)したことでもうかがえる。その後、1925年にレスレルはパリに向かう。ちょうどトワイヤンと同じ頃だった。やはりパリへの憧れが強かったのだ。

2011/09/19

チェコ前衛写真1

20世紀前半のチェコ(ボヘミア) はバウハウス(Bauhaus) の影響を強く受けている。たんに影響をうけたという以上に、陰翳深いかたちでそれを消化し、独特の前衛芸術を発展させていった。
背景には、1918年のチェコスロバキア独立に絡んで、少数派とはいえかなりの数にのぼるドイツ人に対して不平等な処遇をしてきたことがある。さらに、当時のチェコ前衛の芸術家たちがフランス志向であったこともひとつの要因だろう。多民族国家として成立したチェコスロバキアにとって、文化は新生国家の統一性を保つための要素であり、それを求めて自由と躍動の時期にあったといえるかもしれない。 (※ 写真/デザイン:Karel Teige

2011/09/16

フランク・ゴールケの風景 3: 自明性への問い


ふりかえれば、19世紀に登場した感覚に重きを置いた写実絵画は、20世紀の芸術に貴重な遺産を残したが、短期間のうちに衰退する運命にあった。
「モネはひとつの眼にすぎない。だが、それはなんと素晴らしい眼だろう」
そのセザンヌの声は、感覚への賞賛である以上に、その限界を嘆くレクイエムとして響いてくる。

2011/09/14

フランク・ゴールケの風景 2: カポニグロ


1942年にテキサスで生まれたフランク・ゴールケは、テキサス大学で英文学を学び、東部の名門大学エールで学術修士を取得した知識人でもある。その一方で、在学中より写真を始め、やがて風景写真家のポール・カポニグロ(Paul Caponigro,1932-)に師事し、プロの作家への道を歩んでいく。少しカポニグロにふれておこう。

2011/09/12

フランク・ゴールケの風景 1: ニュー・トポグラフィクス


写真家フランク・ゴールケ ( Frank Gohlke,1942-) といったところで、日本での知名度が高いわけではない。わかりやすい紹介としては、1975年にジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館で開催された「ニュー・トポグラフィクス」展に出品した一人といえばいいだろうか。
同展は副題を「人間が変えた風景の写真」という。10人の写真家たちが出品し、このなかにはルイス・ボルツやベッヒャーらがいた。彼らの写真の共通項は、既存の風景概念をいったん放棄したことだった。測量学的なニュアンスの強いトポス(地勢)と、作図を意味するグラフィクス(製図法)を組み合わせた名で呼ばれることになるこれらの写真家たちが、写真と風景の関係に及ぼした影響は計り知れない。 

2011/09/09

ロベール・ドアノーのパリ郊外


『市役所前のキッス』というあざとさが目につく写真のために、ロベール・ドアノー(Robert Doisneau,1912-94) は誤解を受けている。ドアノーの大衆性を表面的にとらえてしまうと、その写真を見誤ることになる。比較文化論の今橋映子は著書『<パリ写真>の世紀』のなかで、ドアノーの好んだ言葉が「不服従」(desobeissance)であると書いていた。「この信念こそが、ドアノーの精神を支えていた」と。

小石清の神経 3

『初夏神経』というタイトルは、その文字面を見ているだけで、濃密な陰りを感じさせる。実際、小石清がはじめて形にした、この写真集には、その過敏な神経を結集したかのような作品が並んでいる剥きだしになった神経が時代を模索し、ある種の皮膚感覚となって伝わってくる。同時に、どこかとぼけた味があって、それがピクチャレスクに決別し、写真の独自性を追求した新興写真にあって、安井仲治(Yasui Nakaji, 1903-42)や小石はさまざまな技法を駆使しながら、より先鋭的な写真像を追い求めていった。

2011/09/05

小石清の神経 2

その成果は、1931年に第二回国際写真展で一等商工大臣賞の受賞としてかたちになる。第一回は中山岩太が受賞した賞である。小石の受賞作は「クラブ石鹸」。黒をバックに白い波線のなかに石鹸を浮かび上がらせた前衛的な作風だ。その後、小石は数々の写真賞で一等入賞を重ねていく。

2011/09/03

小石清の神経 1

写真の記録性が、ときとして写真家に屈辱をもたらすことがある。それは権力が時代の記録のために、しかも自身に都合のよい記録のために彼らの技術のみを利用しようとするときで、1930年代に出現した日本のフォトジャーナリズムはその受難と向き合うことになった。

2011/08/31

安井仲治の「壁」 3


安井はこの作品に寄せて、本来は縁のないはずの人と猿が、また見る人と見られる人が、ひとつにつながっている。そうやって生活している、という意味のことを書き記している。「目に見えぬ何か大きな糸ででも結ばれてゐる」と。そのすがたが、どこか悲しげで、それでいて温かい。おそらくそれが安井の人間観であり、世界観であったのだろう。

2011/08/30

安井仲治の「窓」 2


1928年に安井は倶楽部の中堅4人で「銀鈴社」を結成、30年には浪華写真倶楽部のメンバーが新たに設立した「丹平写真倶楽部」参加した。心斎橋筋2丁目にあった丹平ハウスに部屋を持ち、1階にあったアメリカ式カフェのソーダファウンテンに仲間たちが集まって、写真談義をした。丹平写真倶楽部は兄貴分の浪華写真倶楽部に比べ、ストレートフォトの傾向が強く打ちだしていた。新しい作風を求めて、活動の幅を広げていく安井の姿がうかがえる。

2011/08/29

安井仲治の「窓」 1



38歳という若さで亡くなった写真家・安井仲治(Yasui Nakaji, 190342)は、ドキュメンタリーからシュルレアリスムまで幅広い分野を手がけているが、そこに立ち現れる象徴性は一貫している。
たとえば安井の作品にナチスの迫害を逃れ日本にやってきた亡命ユダヤ人を撮ったシリーズがあって、なかでも『窓』とタイトルされたタテ位置の写真は独特のムードを漂わせている。おそらく神戸だろう。当時は欧州航路の客船は神戸港に入り、ここから航海にでた。想像をはるかに超えて、コスモポリタンの街であったはずだ。

2011/08/24

中山岩太のモダニズム 3


そのころ、カメラといえばいまとは比較にならないほど高価なもので、それを所有するのは特権階級的な人々で、特殊な趣味であった。芦屋カメラクラブが地域にとどまらず、全国的に名を馳せたのは、その背景に芦屋もしくは阪神間のモダンな文化があってのことだろう。

2011/08/23

中山岩太のモダニズム 2


当時、プロのカメラマンとは営業写真師を意味し、創造的な作品はもっぱらアマチュア写真家によって支えられていた。芦屋カメラクラブもそのひとつだが、創設時に中山以外で作品発表暦を持つ者はいなかった。しかし、中山のカリスマが会員たちを牽引し、その成果は昭和6年(1931)に東京朝日新聞展覧会場で行なった展覧会に結実する。「独逸国際移動写真展覧会」が開かれた直後、同じ会場で開催されたものだ。

2011/08/22

中山岩太のモダニズム 1





写真を芸術に高めようと、大正期には特殊な技術で画像をぼやかせた「芸術写真」(ピクトリアリスム)が流行した。ところが、昭和になると、写真が本来もっているシャープで明晰な画像によって、新たな作風を追求する動きが高まってくる。「新興写真」といわれたドイツ風の前衛的な表現様式で、これを日本にもちこんだのが中山岩太 (1895-1945)だった。