2010/06/28

エレン・サマーズ、踊りと映像 2

エレン・サマーズはオーストラリアのパースに生まれ、米ボストンで育った。その後、1950年代にはニューヨークに移り住んでいる。ダンスと映像を結びつけるという構想は、かなり初期から彼女のなかに芽生えていた。

彼女がやろうとしたのは、おそらく新しいかたちで生の瞬間を表現したかったのではないだろうか。下の映像にはそれが特徴的だ。ふたりのダンサーがゆっくりとした動きのなかで近づき、地面を蹴って飛翔する。そのままm抱きあおうとした瞬間、彼女たちは身を翻して、美しく着地する。この映像は「Two Girls Downtown Iowa (1973)」とある。

モダンダンスに詳しければ、このスタイルはまさにコンタクト・インプロビゼーション(contact improvisation)である。72年にスティーブ・パクストン(Steve Paxton)が考案したもので、ふたりのダンサーが身体の一部を接触させつつ行い即興舞踏をさす。スティーブもジャドソン・ダンス・シアターの重要なメンバーだった。
即興ダンスは本来、ひとりで踊られるものだったが、ここに他者を持ち込むことで、未知なる動きや意外な展開が生まれる。これによって、ダンスが観客を意識するものから、自身の身体の声を聞き、対峙するダンサーの動きに知覚を集中させる新しい展開が誕生した。

2010/06/26

エレン・サマーズ、踊りと映像 1



ダンスの素晴らしさ、あるいは優位性ともいうべき要素は、その一回性にある。二度と再現できないという刹那の芸術が纏っているのは、一瞬の形と場の感覚だろう。

2010/06/24

バニエ、普段着のポートレート 2

一群の写真を見て、これはだれが撮ったのだろうと思う。写真が優れていたというより、被写体に惹かれてのことだ。最初はそこに映っているのがだれなのか、わからなかった。見ているうちに、気づきがあった。「ゴドーを待ちながら」を書いたサミュエル・ベケット(Samuel Beckett, 1906-89)だと。それにしても痩せている。ショートパンツ姿の痩せた老人が、海岸べりを歩いている。女性にも見まがうばかりのしなやかさだ。

フランソワ・マリー・バニエの写真がいいというより、ベケットがいい。いかにも無防備だ。場所はおそらくモロッコのタンジェだろう。多くの作家が取り憑かれた街。間と沈黙による芝居を書きあげたベケットがそこにいる。思想が写真に浮かびあがるのではない。むしろそういうものを剥ぎ取ったベケットが写っているというべきだろう。
バニエは器用で才能もあるが、コクトーになれるわけではない。バスキアになれもしない。しかし、人としてのベケットを、あるいは作品によって偶像化された著名人たちを、その心の隙間に入り込んで写し撮ることはできる。これはそういう写真なのだ。 (了)





2010/06/22

バニエ、普段着のポートレート 1


フランスの純文学系作家フランソワ・マリー・バニエ(Francois-Marie Banier,1947-)の写真展が東京都写真美術館で開かれたのは10年前、2000年秋のことだった。大きく引き伸ばしたモノクロ写真に、カラフルなペイントを施したり、細かい字でなにかを書きつけたり、被写体の輪郭をなぞったりしたものだ。とくに珍しくはない。写真自体は静謐だが、そこにさまざまな不純物が持ち込まれる。まるで日常のようだ。被写体は俳優や作家、映画監督、ピアニスト、あるいは無名の人々。なにげない表情でフィルムに収まっている。とくに優れた写真という印象ではない、むしろ素人っぽい。それがパリではよかったのだろう。

スキがある、というのはたしかに美徳だ。少なくとも人を惹きつける。人目を意識しすぎたナルシスティックな存在は、人を遠ざける。写真も同じだ。書き込みや加工を可能にし、人を近づける。2007年には「Le Brestalou」と題した写真集を出版した。俳優ジョニー・デップとその家族を撮影したものだ。そこに登場するのは普段着の彼らの姿だ。しかし、撮られている以上、撮影者と被写体の関係がいくら密であったとしても、どこかに自己演出が忍び込む。この写真集はその衒いなき衒いを感じる。悪くもないが、特筆すべき強烈な魅力があるわけでもなかった。

バニエは絵も描く。その絵もやはりテキストが多用され、絵と文字、あるいはフリーハンドによる描線がデザイン的な画面を作りだしている。そこにやや緊張感が漂うのも、いまふうだ。
この作家のなにが気になったのか。それは被写体への、とりわけ名前の知られた人物への接近の仕方というようなものかもしれない。(つづく)

 Banier' site
※ バニエ 2へ





■関連本
 

2010/06/13

ピーター・ヒューゴ、静かなる暴走

南アフリカの写真家ピーター・ヒューゴ(Pieter Hugo)の作品が凄い。
脱色したような淡い色彩のなかで、なにげない路上の風景や家族の肖像、ポートレートが目に映る。その背景にはアフリカの血に染まった物語がうずたかく積もっている。それを説明されるまでもなく、静かな写真からそのただならぬものの気配が充分に伝わってくる。たぐいまれな才能だ。


1976年ケープタウンに生まれ、そこで育つ。この30年あまりのアフリカを直に呼吸してきた。作品には南アフリカのほか、ジンバブエと南アの国境の街ムシナ(MUSINA)やメッシナ(Messina)、ルワンダで起きた大量殺戮を取材。戦闘や暴力シーンを撮影するのではなく、日常の暮らしをカメラに収めながら、そこから溢れでようとするかのような歴史の凄惨さをすくいとっている。


男たちがまるで犬でも散歩させるように紐でつないでいるのは、口を縛ったハイエナだ。同じように連れ歩いているマントヒヒはどこか狂気じみている。写真集の序文を読めば、彼らが旅芸人であるとわかるが、それでもそこに潜む狂気が減じるわけではない。アルビノを撮った肖像は、その症状ゆえに殺害された人々を思い起こさせる。森のなかにたたずむ青年は、ただそこにいるだけでなぜか暴力の匂いを漂わせている。














植民地として長く西欧支配を受けたアフリカゆえに、西欧近代の文化に充分に訴えうる文化的背景を抱えながら、独自の歴史を歩んできたアフリカの姿を捉えた写真群だ。肌がひりひりするような戦慄と興奮を覚える。


※Pieter Hugoの写真サイト
http://photography-now.net/pieter_hugo/
http://www.pieterhugo.com/


2010/06/10

フェロノーの豊かな幻影

パスカル・フェロノー(Pascal Fellonneau)というフランスの写真家について、私はほとんどなにも知らない。1968年にボルドーで生まれ、少年時代の多くをブドウ農園をもつ祖父のtころで過ごしたと写真家自身がウェブサイトに記している。その農園の写真は、愛情に満ちて、人の暮らしの匂いがする。都会ではない、田園地帯の豊かな薫りだ。

この写真家がどういうつながりがあったのか、アイスランドの風景を数多く作品化している。おもちゃの国を連想させるような建物と、はかなげな淡い色をした自然。そこにはボルドーほどの太陽の恵みはないが、清潔で、やはり人の暮らしを感じさせる。

ホンマタカシのアイスランドよりもさらに淡い。人との距離が遠い。にもかかわらず人の気配がある。ときに人がいたという過去の幻影を見ているのかと思うことさえある。その不思議な感覚が見る者を惹きつける。
アンドレアス・グルスキーらドイツの現代写真にも似たような感覚を覚えることがあるが、彼らのもつ批判的な眼差しからは遠い。フェロノーの幻影には豊かな生がある。

※ Pascal Fellonneau's Website

2010/06/08

ヴォルカーの裸形

奇妙なヌード写真を撮る写真家がいる。クリストファー・ヴォルカー (Christopher Voelker)、彼はヌードを通して、人間という“場所”を撮っているのかもしれない。ここでいう場所とは、本来あるはずの姿とでもいうべきものだ。とりわけ女性の裸体というフォームによって、その姿を写し撮ろうとしている。裸体というより裸形という言葉のほうが、より写真のもつニュアンスに近いかもしれない。

2010/06/07

ディアゴスティンの東京

イタリア・ヴェニス生まれの写真家レナト・ディアゴスティン(Renato D'Agostin)が、ちょっと変わった切り口で東京を撮影している。すべてモノクロ写真で、どこかで見たことがあるような気もするのだが、やはり新しい。それは皮膚感覚のようなもので、森山大道のようなアレがあるかと思うと、シャープさが感じられ、巨大でシステマティックかと思えば人間的。いずれにせよ全体的な印象は、掴みどころがなく、混沌としてブラックホールのようなメガロポリス東京を写し撮っている。それは現実を捉えながら、それが抽象へと接近しているからだろう。

ディアゴスティンは1983年生まれ。01年から写真家として活動を開始した。これまで欧米の大都市を撮影し、東京については昨年暮れに「Tokyo Untitled」を出版した。



Tokyo Untitled」は
amazon.comで購入可能
$45.00





※ Renato D'Agostin "Tokyo Untitled"
東京の写真43枚が閲覧可能


2010/06/03

大野一雄の即興

肉体のなかには、命というものが形となって宿っている。舞踏は、この“肉体”をなによりも大切にした。信仰といってよいほどに。それゆえ、そこに巣食う醜さや秘密を抉りだし、包み隠さず曝けだそうとする。ナンセンス、破廉恥と蔑まれようが、狂気と名指しされようが、あらん限りの力をつくして命を輝かせ、形を炙りだす。

大野一雄の舞踏は、徹底した即興によってそれをした。その舞踏は、形式を肉体にあてはめることをしない。肉体に宿った形を瑞々しく象っていく。ときに大野の姿はこの世のものではない妖しさを纏った。しかし、そのロマンティシズムは徹底したリアリズムに支えられている。大野はこう語っている。形はおのずと命に追いすがってくるものだと。